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~ヘタレ研究者は今日も逝く~

real or fictional?

法人実在説と法人擬制説っていうふるーい議論があるけれど(今,あれを議論する人はほとんどいないと思うけれど),それに似たような対立(というか誤解)ってあるんじゃないかな,と最近とみに思うわけです。

もちろん,法人実在説vs法人擬制説という議論には,さまざまなレベルでの議論があって,それぞれのレベルではどっちの方が妥当かっていうのはいろいろ。なので,どっちが正しいとかどっちが間違っているとか一概に言えるわけではない。ある側面では法人実在説が正しいし(なんか樋口せんせを思い出す),また別の側面では法人擬制説が正しいこともある。その辺を理解せずに論争するのは全く不毛なわけだけど。

で,最近気になっているのは,policy questionのレベルでの議論。このレベルの議論であれば,あるpolicyを採用することによって誰にどういう利害が帰属するんだ,っていうことを分析していかなければいけないので,基本的には,「法人」って言われているものの背後にはいったい誰がいるんだ,ということを分析に見ていく法人擬制説的な考え方が妥当しやすい。

たとえば,会社法を学ぶときは,「会社」っていう訳の分からないモノが存在していて,なんて考えるよりは,株主・債権者・経営者っていう3人のアクターの間をどういうふうに利害調整するか,って考えることの方が単純明快なわけ。で,実際,たいていの会社法の教科書は,そういう視点から書かれているはずだ(そうじゃないのもたまにあるwww)。ちなみに,会社法を教えるときは,「会社法ってこの3人しかアクターがいないから,もっとたくさんのアクターが登場する民法なんかと比べると,単純明快で楽だよねー」って最初に言うことにしてるんだけど,どうもあまり実感されていないっぽいorz

ところが,他の法分野に行くと,そういう視点がごっそり抜け落ちてしまうことをしばしば見る。たとえば,憲法生存権の周辺とか。この場合,国とか地方公共団体とかっていう1個の切り離された存在があって,そこが何か必要な給付をしてないね,っていうことになると,「じゃあ給付しろ,給付しないのは違法or違憲だ」っていう結論に行きやすい。

けれども,そういう国とか地方公共団体っていうのは切り離された存在じゃなくて,僕ら国民・住民の税金で運営されているものだよね,っていうことになると,「そのように追加給付をするなら,その分,消費税(でなくてもいいけど)を上げるんですか」っていう話になるし,あるいは,「そのように基準を緩めるなら,不可避的に不当な受給者の割合も増えて,その分,無断な給付にたくさんの税金が回ってしまう(そしてその分,また増税する)けど,それでもいいんですか」っていう話になる。後者の例は,生活保護とか水俣病認定基準とかに当てはまる可能性があって,ひょっとすると,現行基準っていうのは,その辺のコスト・ベネフィットのバランスを考えて作られているのかもしれない。

それで結構すごいな,と思うのは,こういうタイプの訴訟で,提訴してくる原告(とその弁護士)は,自己利益だけを考える(=他の国民・住民がどうなろうと知ったこっちゃない)インセンティヴがあるので,そうするのは分かるんだけど,その場合に原告勝訴の判決を書ける裁判官。もちろん,原告勝訴の判決を書くべきケースがありうることは分かるけれど,もしも自分がその立場に立たされたら,「自分のような裁判官に,上のような色々な政策的な利益衡量をできるほど情報が集まっているのか?」っていう点は相当思い悩むだろうなぁ。特に,巷では,消費税のせいで民主党が負けたことになってるし(僕の評価は違うけど),「無駄を省く」事業仕訳が人気なわけで。そういった「民意」(?)があるところで,増税や無駄の増加につながる政策判断をすることは,相当に気が重くなるだろうなぁ,と想像されるわけです。

他にも,「増税するなら法人税」なんてことをおっしゃる人々も,法人の背後にいるのは株主・債権者・経営者だよ,っていうことを理解していれば,「法人税増税したら,給料減ったり,解雇されたり,会社が外国逃げたりするでしょ」という予測がつくはずなんだけどね。いや,そういう帰結でも構わない,と腹をくくっているのならいいんだけど(いいのかw)。

で,法(?)を学ぶことの一つのメリットは,一般人と違ってこういうきちんとした理解ができるようになることだと思うんだけど,そうせずに感情的に考える方々が意外に多いなぁ,というのが,謎&悩みなわけです。